29 Jul 2012

トルコ島めぐり①:Buyukada

Istanbul南部、マルマラ海に浮かぶプリンセス諸島

9つの島からなるこの諸島。現在では近場にある避暑地として、夏場は地元の人々や観光客でにぎわっていますが、ビザンツ帝国時代に失脚した元皇帝などが幽閉されていたと言われています。


その中でも一番大きいのがBuyukada(トルコ語でBig Islandの意)。こちらに週末で行ってきました。

かつて裕福なギリシャ人やアルメニア人が建てたという別荘や、ビザンツ時代に建設された修道院が未だ残り、島内では車の使用が禁止されているので、移動手段は自転車か馬車。Istanbulとはまた異なる雰囲気があります。



現地に行って初めて知ったのですが、この島にはかつてトロツキーも亡命していたとのこと。
レーニンの死後失脚したトロツキーは、1929年ソ連から国外追放されるに至り、このBuyukadaに移住。ここから体制批判の為の雑誌を刊行していたとのこと。

彼が滞在していた住居は、今では森の中にひっそりとたたずんでいました。

そんな背景とは裏腹に、島はとてものどかな雰囲気があり過ごしやすかったです。






8 Jul 2012

年齢気にしすぎ病


古い体質のインフラ業界で働いているせいか、仕事を始めてから自分が若い(20代前半)ということを良い意味でも悪い意味でも痛感させられるようになった。(日本人とのコミュニケーションにおいて)
若いからこそすぐに覚えてもらったり、よくしてもらえることもある一方で、若さ=未熟さゆえにそもそも相手にされない・意見を聞いてもらえないことも無きにしも非ず。

仕事相手に年齢を直接聞かれることはまずないけれど、「入社何年目ですか?」とはよく聞かれる。そして、これは暗に「何歳ですか?」と同じ質問を意味しているのだと思う。

多くの日本企業においては年功序列・終身雇用という価値観が未だに強く残っており、相手の年次を気にする人がとても多い。というか、まず最初にする質問が「何年入社?」だったりする。
院卒や転職者の場合、年次は低いのに年齢は上ということも大いにあり得、その場合は色々と混乱をもたらすことが多い(気がする)。

そして、この年齢を基準に相手を判断する社会的傾向は、女性の場合にはより大きな負担となる。

最近はアラサ―やアラフォーなど、「〇〇歳なのに●●」という言われ方がよくする。
●●に入るのは美人、活発、未婚、再婚、出産などなど、色々な言葉があるけれど、どれもその年齢に対する一般的通念と比較した際、そのギャップが大きいから使われるのだと思う。

でも、この傾向にはちょっと(いや、かなり)違和感を感じる。

例えば30,40,50歳と歳を重ねていって、美しくなくなるなんて誰が決めたんだろう?
確かにシワは増えるし、昔の様なハリのある体ではないかもしれない。でも、豊富な知恵や経験に基づく内面的な魅力は20代とは格段に違うと思う。もちろん、外面的な美しさや愛嬌を保ち、洗練させていくおねえさん、おばさん、おばあさんもたくさんいる。

むしろ、“この年齢だからこうでなくてはいけない”という社会の圧力が彼女らを老けさせていくんだと思う。例えば、海外ではおばさん世代でも露出の多いキャミソールやスカートを平気で身に着けている。もちろん服装の好みは人それぞれだけれど、周囲の目を気にせず自分が好むファッションを楽しむことは女性の美にとってとても重要だと思う。


また、最近の芸能報道では「35歳なのに未婚」「40歳で出産」「50歳にして再婚」などなど、年齢を引合いに出した見出しをよく見かける。メディアが注目を集めるためにわざとそうしているのだろうけど、本人からすれば大きなお世話以外の何物でもないと思う。
30歳だって40歳だって色んな理由で結婚しない人はたくさんいるし、50歳だって魅力があれば誰だって再婚は自由。
年齢を明らかにすることで、その人の本質をネガティブな方向に歪ませる風潮には賛同できない。重要なのはその人の外見・内面であって、年齢という単なる数字ではないと思う。


と、そんなことを思ったのは最近スーパーボウルのハーフタイムショーやコンサートで活躍するマドンナが年齢を元に批判されているから。
彼女が現在53歳ということで、露出の多い服を自粛しろなど叩かれていた。でも、実際彼女の年齢を知らなかったら、多くの人が文句なしに彼女のパフォーマンスに魅了されていたと思う。(イスタンブールでのコンサートに相当問題があったという点は置いておいて…)
もちろん、これは人々の注目を浴びるセレブリティだからという特殊なケースではあるけれど、日本に比べれば、海外では年齢によって判断されることは少ないと思う。
渡辺千賀さんのBlogエントリー、アメリカでは年齢があまり関係ないことについてにもあるように)

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昔知り合ったケニア人の青年は自分の誕生日を知らなかった。だから、年齢も分からない。
見た目や話した感じからおそらく自分と同じ歳くらいだろうなーと思っていたけれど、もしかしたらすごい上かすごい下だったかもしれない。
でも、そんなこととは関係なしに彼はとても素敵な人だった(人間として)。

もちろん、酒やたばこ、映画などの視聴制限においては生物学的な指標としての年齢は重要。
でも、それ以外の場面で年齢を気にしすぎる社会の価値観は、自らを(特に女性を)不幸にしているようにしか思えないなぁ。

6 Jul 2012

「まっぷたつの子爵」

イタリア人作家イタロ・カルヴィーノ著「まっぷたつの子爵」。

カルヴィーノはキューバに生まれ、イタリアに育ち、第二次世界大戦末期には祖国解放を目指すパルチザンに参加しドイツ軍と戦った経験を持ちます。
戦後の混乱の中、トリノ大学に編入した彼は、その後数々の寓話的長編小説を短期間で書き上げます。

その一つが1716年のトルコ対オーストリア戦争を舞台にした本作。
小説のモチーフは「まっぷたつにされた人間」。

戦争でトルコ軍の大砲を受け、縦にまっぷたつとなり右半分だけ生き残ったメダルド子爵。九死に一生を得た彼は、その外見だけでなく中身も大きく変わり、悪意に満ちた残忍な人間に変わり果ててしまう。日々悪事を働き、村を恐怖のどん底に陥れるメダルド。ある日、彼の前に死んだはずの左半分が姿を現し、この“悪半”と“善半”が決闘することとなる。

メダルドは言います。
「完全なものはなんでも半分になるのだ。・・・かつて、わたしが半分だったころには、すべてのものが自然に、そして空気のように愚かしくも混乱して見えた。 
あのころ、わたしはなんでも見えるような気がしていたが、それは外観にすぎなかった。もしもおまえが半分になったら、そしてわたしはおまえのためにそれを心から願うのだが、少年よ、ふつうの完全な人間の知恵ではわからないことが、おまえにもわかるようになるだろう。 
おまえはおまえの半分を失い、世界の半分を失うが、残る半分は何千倍も深い意味をもつようになるだろう。 
そしておまえはすべてのものがまっぷたつにあることを望むだろう、おまえの姿どおりにすべてのものがなることを。なぜなら美も、知恵も、正義もみな断片でしか存在しないからだ。」
彼が示唆するのは、人間だけでなくあらゆるものの持つ二面性や不完全であるからこその可能性なのではないでしょうか。
また、善意に満ち溢れたメダルドの右半分の親切が仇となり、結果的に村人に迷惑をもたらすという描写からは、善悪の区別が必ずしも一定ではないことを表しています。

シニカルで幻想的なカルヴィーノの世界が楽しめると共に、とても本質的な問いを突きつけてくれる一冊です。是非ご一読あれ。

1 Jul 2012

「異邦人」


アルジェリア出身の小説家、アルベール・カミュの代表作「異邦人」。

彼の作品に一貫して登場するのは不条理という概念。
彼は不条理を理想との間に生じる対立、葛藤、分裂であり、理性をもつ人間が直面する問題だと定義。
 不条理に対し、人は3つの選択肢を与えられる。それは即ち、自殺、宗教などへの盲信、不条理の認識。

カミュはこの不条理を受け入れ、立ち向かうことを説く。
「運命を不条理と知る時には、意識によって絶えずこの不条理を目前に明らかにしつつ、この不条理を支えてゆくために全力を尽くさなければ、その人はこの不条理の運命を生きないことになるだろう。・・・生きること、それは不条理を生かすことだ。不条理を生かすこと、それは何よりもまず不条理を見つめることだ。・・・不条理はそこから眼をそむける時にのみ死ぬのである。かくして首尾一貫した唯一の哲学的立場の一つは反抗である。・・・ この反抗は人生にその褒賞を与える。全生涯を通じて行われる反抗は、その人の人生に偉大さを与える」
しかし、不条理に対峙した瞬間、人は孤独な“異邦人”となるのだ。

本作の主人公であるムルソーは、母の死に何の感情も持たず、葬儀の翌日に海水浴へ行き、女と関係を持ち、大して面識のないアラビア人を「太陽のせい」として殺し、獄中でも自分は幸福だと感じ、群衆が憎悪の叫びをあげ自分の処刑台に集まることを願う。
この、社会の一般的通念や人々の理想からかけ離れたムルソーの対応は彼を“異邦人”とならしめ、最終的に斬首刑との結末をもたらすことになる。

しかし、慣れ親しんだ環境への違和感や虚無感、無感動、感情を露呈することの無意味さは、誰しも人間社会で感じることがあるのではないでしょうか?
ただ、皆それを認めることで“異邦人”になることを恐れているだけなのだと感じます。

尚、本作では太陽と海の描写が多用されています。(主人公の名前ムルソー(Mersault)は、海(メールmer)と太陽(ソレイユsoleil)、この2つのフランス語を続けて発音すると近くなる)
アフリカ大陸に足を踏み入れたことがあれば、灼熱の太陽が人を狂わす理由も理解できなくはないでしょう。

ちなみに、本作はイタリアのルキノ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ監督により1967年に映画化されています。